二、家系
ファラデーの家はアイルランドから出たという言い伝えはあるが、確かではない。信ずべき記録によると、ヨークシャイアのグラッパムという所に、リチャード・ファラデーという人があって、一七四一年に死んでいるが、この人に子供が十人あることは確かで、その十一番目の子だとも、または甥だともいうのに、ロバートというのがあった。一七二四年に生れ、同八六年に死んでいるが、これが一七五六年にエリザベス・ジーンという女と結婚して、十人の子を挙げた。その子供等は百姓だの、店主だの、商人だのになったが、その三番目に当るのが一七六一年五月八日に生れたジェームスというので、上に述べた鍛冶屋さんである。ジェームスは一七八六年にマーガレット・ハスウエルという一七六四年生れの女と結婚し、その後間もなくロンドンに出て来て、前記のニューイングトンに住むことになった。子供が四人できて、長女はエリザベスといい一七八七年に、つづいて長男のロバートというのが翌八八年に、三番目のミケルが同九一年に、末子のマーガレットは少し間をおいて一八〇二年に生れた。
一七九六年にミュースに移ったが、これは車屋の二階のささやかな借間であった。一八〇九年にはウエーマウス町に移り、その翌年にジェームスは死んだ。後家さんのマーガレットは下宿人を置いて暮しを立てておったが、年老いてからは子供のミケルに仕送りをしてもらい、一八三八年に歿(な)くなった。
三、製本屋
かように家が貧しかったので、ミケルも自活しなければならなかった。幸いにもミュースの入口から二・三軒先きにあるブランド町の二番地に、ジョージ・リボーという人の店があった。文房具屋で、本や新聞も売るし、製本もやっていた。リボーは名前から判ずると、生来の英国人では無いらしい。とにかく、学問も多少あったし、占星術も学んだという人である。
一八〇四年にミケルは十三歳で、この店へ走り使いをする小僧に雇われ、毎朝御得意先へ新聞を配ったりなどした。骨を惜しまず、忠実に働いた。ことに日曜日には朝早く御用を仕舞って、両親と教会に行った。この教会との関係はミケルの一生に大影響のあるもので、後にくわしく述べることとする。
一年してから、リボーの店で製本の徒弟になった。徒弟になるには、いくらかの謝礼を出すのが習慣になっていた。が、今まで忠実に働いたからというので、これは免除してもらった。
リボーの店は今日でも残っているが、行って見ると、入口の札に「ファラデーがおった」と書いてある。その入口から左に入った所で、ファラデーは製本をしたのだそうである。
かように製本をしている間に、ファラデーは単に本の表紙だけではなく、内容までも目を通すようになった。その中でも、よく読んだのは、ワットの「心の改善」や、マルセットの「化学叢話(そうわ)」や、百科全書(エンサイクロペジア)中の「電気」の章などであった。この外にリオンの「電気実験」、ボイルの「化学原理大要」も読んだらしい。
否、ファラデーはただに本を読んだだけでは承知できないで、マルセットの本に書いてある事が正しいかどうか、実験して見ようというので、ごくわずかしかもらわない小遣銭で、買えるような簡単な器械で、実験をも始めた。
四、タタムの講義
ファラデーはある日賑(にぎ)やかなフリート町を歩いておったが、ふとある家の窓ガラスに貼ってある広告のビラに目をとめた。それは、ドルセット町五十三番のタタム氏が科学の講義をする、夕の八時からで、入場料は一シリング(五十銭)というのであった。
これを見ると、聴きたくてたまらなくなった。まず主人リボーの許可を得、それから鍛冶職をしておった兄さんのロバートに話をして、入場料を出してもらい、聴きに行った。これが即ちファラデーが理化学の講義をきいた初めで、その後も続いて聴きに行った。何んでも一八一〇年の二月から翌年の九月に至るまでに、十二三回は聴講したらしい。
そのうちに、タタム氏と交際もするようになり、またこの人の家には書生がよく出はいりしたが、その書生等とも心易くなった。そのうちには、リチャード・フィリップスというて、後に化学会の会長になった人もあり、アボットというて、クエーカー宗の信者で、商店の番頭をしておった人もある。後までも心易く交際しておった。アボットと往復した手紙がベンス・ジョンスの書いたファラデー伝の中に入れてあるが、中々立派に書いてある。そのうちには、ファラデーが時々物忘れをして困るというような事も述べてある。ファラデーは随分と物忘れをして、困ったので、その発端は既にこの時にあらわれている。仕方がないので、後にはポケットにカードを入れて置いて、一々の用事を書きつけたそうである。
またアボットの後日の話によれば、ファラデーが自分の家の台所へ来て、実験をしたこともあり、台所の卓子(テーブル)で友人を集めて講義をしたこともあるそうだ。この頃ファラデーが自分で作って実験を試みた電気機械は、その後サー・ジェームス・サウスの所有になって、王立協会に寄附され、今日も保存されてある。
ファラデーはタタムの講義をきくにつれて、筆記を取り、後で立派に清書して、節を切り、実験や器械の図をも入れ、索引を附して四冊とし、主人のリボーに献ずる由を書き加えた。
この筆記を始めとして、ファラデーが後になって聴いたデビーの講義の筆記も、自分のした講義の控(ノート)も、諸学者と往復した手紙も、あるいはまた金銭の収入を書いた帳面までも、王立協会に全部保存されて今日に残っている。
リボーの店には、外国から政治上の事で脱走して来た人達が泊(と)まることもあった。その頃には、マスケリーという著名な画家がおった。ナポレオンの肖像を画いたこともある人で、フランスの政変のため逃げて来たのである。ファラデーはこの人の部屋の掃除をしたり、靴を磨いたりしたが、大層忠実にやった。それゆえマスケリーも自分の持っている本を貸してやったり、講義の筆記に入用だからというて、画のかき方を教えてやったりした。
入力:松本吉彦、松本庄八 校正:小林繁雄
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